昭和40年08月23日 月例祭



 今日の夕刊に石ストーンの事がでておりました。西日本の夕刊ごらんになった方もございますでしょう。もう全国的に風靡しておる。福岡でも昨日でしょうか今日でしょうか。夕刊ですから今日かもしれません、拾い集めたり買い集めたり致しました石を。皆持ち寄りましてそれに品定めをする、また交換をすると言う様な。まあ一つのまあ道楽で御座いますね、それがまあ盛んになっておる事を聞いておりましたが、新聞で見るほど盛んではないかと思うておりましたがもう京都。
 大阪あたりではもう少し狂的だと、狂的というのは狂うておると、と言う様な意味合いで盛んだそうで御座います。私はそれを読ませて頂いてから思うんですけれどね、本当にお道の信心をさせて頂くものが、本当にそう言う様な名石を、石を持ち合ってそれを少し狂的に、ちっとぼうけてござるとじゃなかろうか、と言う位にです、この石を持ち寄り、その石を磨き合いしかもそれを語り合いまたは、磨きあいするようなおかげに楽しみを持ち、おかげを頂いたら、どんなにか面白い事になるだろうか。
 有り難い事になるだろうかと思う。どうぞ一つその椛目の御信者さんが集まっておったら,本当にいわば名石展に、しゅつぞうそのを見せてもらうような名石がずらりとならんでおるとどうでしょう、ここに例えば百名なら百名の方が並んでおられる、ね、そのかたが持っておられるその石がです。光り輝くように様々な形をして様々な艶合い、色合いその石がその、類を見ないと言う様に。
 見事であったらどんなにか素晴らしい事んなるだろうか。そこに私は信心の焦点と申しますか、信心の目標というものを置かなければいけないと、ね、名石展いわゆる石を持ち寄ると石と言う事は石は心です、ね、あん人は強い意志の人だとか意志が弱いとか申します。心が強いとか心が弱いとか、その心を持ち寄ってですたい、それが今日福岡で開かれましたその名石展に見るようなです、ね、そういうブームを私はまき起すようなおかげをいただかせて頂かなければならんと。
 皆さんがそれを知っちゃいるんですよね、信心とは本心の玉を磨くものだと、信心とは日々の改まりが第一だと、知ってはおるけれどもです、そのほんなら自分の石を持ちおうて競い合おう磨き合おう、と言う様な所まではいっていない知っておるだけ。4、5日前、東京からこれくらいばかりの小さい小包が送って来た。速達で送って来た何を送ってきただろうかと思うたら、開けてみたところが風鈴であった。あそこの風鈴ですね、その風鈴がです、もうそれは見事な音色を出します。ね。
 吹いておる風は同じなんですよ。ガラスなんかの風鈴だったらガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャンちいうだけなんです、いわいかもにぎやかそうにしていますけど、ね、まあ、そこあたりの市場で売っておるなんかだったら。ブリキがねで作ったようなものですから、まあチンと言う様な事です。もう今日なんかこれ、風はおおございましたから、もう余韻がずっと続きどうしなんです。もうだから短冊をさしとる、もう短冊をこうしてから、ほらもう素晴らしい音色がでるんですよ。
 (風鈴の音)ですから、もう、その今日なんかその余韻がずっと続きどうしなんです。ね、そよっと風が吹いても、チチンと鳴る、そよっと吹いても本当に聞いておって、耳を楽しませるだけでなくってです、心が静まり心が清まるような音色がでる、そこは皆さんご承知でしょう。自分の風鈴良い音色が出るぐらいな内容は。もう風鈴次第なのだということです。ね。風そのものは同じなのだ、天地の親神様が下さっておるおかげというのは、皆一様に下さっているんだけれども、こちらの持っておるその石なんです。こちらの持っておる風鈴しだいによってです。
 良い音色もでれば、悪い音色もでる、人に悪い感情を与える音色もでりゃ、人を感心させるような音色もでるんでございますから、ここまでは皆さんもご承知なんでしょうが。それどころではない、ね、「月一つ、影いろいろの踊りかなお月様、お月様は一つしか出てござらんけれども。それは我一人だっておる人達の踊る姿によってその影が違うというのである。同じ5年間同じ10年間信心させて頂きながら。同じお日参りをさせて頂きながら、そのことその方その人の心に感じられる神様。
 受けておられる所の喜び、おかげというのは様々だと言う事なんです。皆さんここまではもう、よう知っておいでられる、ね、ですからその名石展にその見るようなです、ね。石をひらいださせて頂いて、その石を磨かせてもらい、それがいろ艶を出してくるという所にです。お互いの信心の楽しみを持たなければいけないと、もう心次第なのですから。ね、それにそれをすごい所の事は、一番肝心かなめのとこはおいて、そしてその問題のとこだけを右左だと言うておるわけなんです。ね、
 3、4日前の朝の御理解にも頂きました。最近この前の月次祭に見事な。庭、庭造りの本やら、それからこれはそのいま石(・・・・?)小さな石じゃないですけど、大きな庭石の石庭の造り方やら、その石の庭を造るための、ま参考書のような素人でも分かるようなお書物をお供え頂いております。2,3日前、また久富さんがまた。こんなに大きな専門的な本を持ってきて下さった。ですから暇さえあればそれをこの頃、私は読まして頂いておるわけでございます。
 るだけでも楽しいような、写真がいっぱいついておる。どの庭つくりの本にも書いてありますのはですね、庭造りのやはりポイントというのが、焦点というものがどこに置くかというとですね、灯篭にあるそうです。灯篭がいきなりさんぱち、灯篭を据えちゃいかんち、そんなにとうろうの位置は、その庭をもう価値付けるものだそうです。ね。それに例えばこれは銘木だ、これは名石だとというて大きな石ばかりを、ごろごろ庭に置いたところでいかんのです。
 いかに泉水を広々と掘って、その鯉を入れた所でです、もうそれは庭造りの約束には反しておるわけなのです。私は先月でしたでしょうか、杉さんの所のおじさんにあたります、吉井のいわゆる金満家なんです、ね、どれだけお金があるやら分からんというほどにお金があります。もう家も立派ですが、庭がまた見事なんです。見事という素人が見ちゃ見事なんです。歩いて回れば見事なんです。
 所が肝心要の座敷から見たらですね、その奥行きがあるやら、奥行きがもうずうっとあるようだけれども、あるやらないやらわからん、前の方にこんな大きな木がいっぱい植えてある、それが銘木ですね、みんな何故そういうふうにしてあるかというとですね。そこのご主人が目が見えない。杉さんのおじさんになられる。もう亡くなられておりますけれども、ですから毎日散歩に出られる、だから外に出られるのを出たいんだけれど、まためくらが歩きよると言われるなかけんで。
 家の庭を散歩するというふうでです、庭の中に川を取り入れた、そして山を築いた、そして大きな木を植えて、そのずうっと庭を木を伝うてその散歩をされるので、ほで木をなでてはその楽しまれるらしい、ね、ですからもう庭としての値打ちはないと言う事ただ銘木が沢山植え込んであるというだけの事。お参りが何十年朝参りが出来ておるというだけのようなもの、ね、どこからこういう銘木を仕入れてきた、この石はどこかの山から持ってきたという、ね。
 泉水は大きくつくってそこに沢山の魚を泳がせておるというだけではいけない、ポイントはどこまでも灯篭だと言う事です。お互いの信心を一つ本当に反省して見なければいけません。只、木だけを石だけをね、池だけ掘ってただ楽しんでいるような信心ではなかろうか、ね。いわゆる灯篭に焦点をおかなければなりません。勿論その灯篭には火がともれしてもらう、点じられものでなからなければ勿論いけません。
 信心の目指しというものがです、自分の心の中に光を感じさせてもらう、自分の心の中に真に有り難いというものを感じさしてもらう、それはどのような中にあってもそうである、ね、そこの所を目指させてもらう。今朝のご理解にもです、ね、これほど信心するのに、どうしておかげがこの様な事が起こってくるだろうかと思うたら、もう信心は止まっておる、これはまだ私の信心が足りんからだと、そこから一段と信心を進めていけばおかげになると、そこから一段と信心を進めていけば。
 そこからおかげが頂けるのである、という御理解、だからそのおかげと言う事を、私は有難いというおかげ、に焦点をしぼって今朝ご理解を説かして頂いた。どうしてこれだけお参りさして頂いておるのに、先生が有り難いと言うのが嘘じゃないだろうか、ほんなこっちゃあるだろうか、ね、これだけ信心させてもらい、私はまだ有難いとも感じた事がなか、ね、おかげを頂くだけでも。
 広大なおかげ頂いて有難うございましたというて、お礼を申し上げるとき、たしかに有り難かった、涙がでるように有り難かったんだけれど、ね。そうではない信心でいう有り難いというのは、そういうどこにおっても。どういう場合でも有り難いと感じれる心、これほど信心するのにどうして私はこの有り難いというのが頂けんのであろうか、これはまだ私の信心が足りんからだ、私の修行が足りんからだと、一段と信心に工夫を凝らさしてもらい、信心に精進させて頂く所から。
 そこからおかげが受けられる、ね、私この有り難いをね、目指せにゃいけんです。ね、今日から今日の、今日から長男が先唱させてもらって、11時まあ暑い盛りに汗を流させて頂く修行をさせて頂こうというので、今秋永先生んとこの息子とそれから中野さんと三人で話し合って朝の、この昼の御祈念を仕えております。もうそれはもう一生懸命に大祓いを奏上させて頂くという修行なのです。
 ですからもう腹のどん底から。ですからもうあまり異様な大祓が上がるもんですから家族中のものがビックリして降りてきてから一生懸命御祈念させ頂く、次々と昼にお参りしてくる方達がそれにつながって、今日も、もうここいっぱいというわけじゃないけれど。今、半分ぐらいのお参りしてきた人達が、その御祈念につれて一生懸命、五巻の大祓の上がり終わるのを待たせて、一緒に御祈念をして頂いて感激して帰っていかれる。もう一生懸命なんです。
 私も御結界に就かせて頂いて一生懸命に後御祈念をさしてもらう。二巻そして三巻と上げるごとに高調してきます。お互いが感激が湧いてきよる。もう感泣するものがある。後ろに座っておる人達も、もうとにかく椛目で昼の御祈念に、昼お参りさせて頂いて、こういう、御祈念にあった事がないものですからもう、今日上野さんなんかは。先生私は表に入るときにもう異様な大祓いが上がっておりますのでもうビックリするだけではなく、なんか身がジーンと引き締まった思いがいたしますと。
 そしたらもう若先生がもう汗ぶるぶるになってその大祓いを先唱しておられ、その後に若い方達が御祈念なさっておられるのを拝まして頂いてから、もう本当に久しぶりに真に有り難いちいうのはこんなことじゃろうかという有り難いに触れさせて頂いたと言うておられます。もう本当にですね、道通る者が車を止めて、何事のあるじゃろうかと思うて見るぐらい、御広前が本当にもう、もうゆうならゆらぐような大祓いなんです。それをひときり御祈念をしてはまた。
 ひときり御祈念をしてはまた、五巻続けれれます。丁度一時間かかります。ね、だからなぁんにお願いもする事はいらん、思うこともいらん、ただその事に一生懸命大祓いを上げさせていただいています。心のそこから上げさせて頂きます。その大祓いを上げております間にです、太平洋の「洋」という字を何回も何回も頂くんですね。不思議なんですね、ああいうどん腹から、もう本当にどん腹から大祓いを上げさせて頂く、しかもそれが一時間も上げごらんなさい、心が豊かにひろううなります。
 もう問題なんかちいさになってきます。もう神様にすがる以外にないんだと。ね、神様におすがりしておるから大丈夫だと。心が大きくなる。ね、人が笑いだんせんじゃろうか、もう一生懸命やるが汗がでるけんぐらいなですね、ことではいけないと言う事。ね、本当にただ一時間余りの間にがです.ここの御広前全体がなんかしらんけれど。沸いてくるような感激のるつぼになってしまうんです。
 一生懸命の者も何人かあっておりますと、もうご理解もなんもあったもんじゃない、みんな思いを寄せた人達がもうほんとにおかげを頂きましたというて帰る。私は真にありがたくならせて頂くというのはです。色々ございましょう。けれどもです、そう言う様な一つの信心の基礎というようなものが、まず出来なければいけません。家のご神前に座ってから、隣近所にその恥ずかしい位な事ではですね、ね。
 それこそ日蓮宗の方達がが内輪太鼓を隣近所お構いなしにどんどんどんどん打つわけじゃないですから、大祓いをいまシンから満から上げさせて頂けるくらいな信心ができなゃいけんとね、心の中ではあげよりますと言う様な事じゃ絶対、大きな度胸は生まれやしません、ね、また本当に本当ののおかげは受けられやあしません、これはやっぱり基礎になるものです。
 私は午後ちょっと便所に立たせて頂いてそこを見ましたら、あの駐車場の向こうの、こう、塀がありますあれ誰かあの、腰かけとりますもん目がこの頃、薄うなってだんのあそこにおるとはちゅたら、あれはあなたあの徹さんです。と秋永先生がいいますけん、徹さんがもう炎天の日がカンカン照る所で、向こう側のほうへ腰掛けてから、大祓いのけいこをしよるとですたい、ち、ね。
 私は今朝から言いました。様々にもう自分流でいいから、我流でよいから工夫を凝らして信心のけいこをせろ、せっかく信心のけいこにきたのであるから、ただ人んとを見てるでけではでけん、自分でもそういう工夫をしておかげを頂かにゃならん、一生懸命大祓いを上げるのに付あわにゃいかんもんだから、しかももう家の中の涼しい所ではない、あの炎天の駐車場のあそこ腰掛けて一生懸命大祓いを上げよる、ね。
 尊いことだと私は思います。石ストーンと、ね、いわゆるその私のこそが名石だというて自分で拾うてきて石を磨き上げて、形の変わったのをです、ね、それに例えば菊の花なんかの模様でもはいっとたら、もう何十万するそうです。あるんですね、もう意外と菊の花の石があるんです、しかもそれが石全面に菊の花を散らしたように、その花が咲いたように書いたように石ん中にでてる、かと思うとですね。
 もう本当にその白梅がこう咲き誇っているような形のですね、つぼみ開いたもの、中開のものがですねいっぱい石に出ているのがあります。信心辛抱さして頂いて、愈々自分の心の中にその梅の花の香るような、梅の花が咲き誇っておるような私は名石にしていかなければいけない、菊の花が本当に浮き彫りさせておるような、自分の心の状態を楽しませて頂く様な信心にならなければいけない、ね、それは様々なの問題を通してのであります。御造営、どうぞ御造営が無事成就いたしますように。
 本当にそれを願わなければならなんのでございますけれども、神様はどうに見てござるでしょうか。皆さん考えられた事がありますか。私共はどうぞ神様の御気感に叶うような御造営ができますようにと言う事に、そのためにはもう愈々例えばその自分の意志、自分の意見というものが一派出刃それを主張して、これがよいんだいいやこれがよいんだというて、そのいわば討論的な会議にさえ、何回も繰り返されております、ね。
 それはよりよい物を作りたい、神様が愈々お喜び頂けれる様なものを作りたいというのが皆さんの願いなんだと、ね、だからそこん所を焦点をおいて皆さんが一生懸命願われる、ところが神様はどうでしょうか。神様にどうぞその立派な御造営ができますように、しっかりお前頼むぞ、と言う様な願いをもっておられるだろうか。本気でおかげを頂きたい、という人たちの上には特別に修行があっておる、あっております。それから考えてもちょっと分かるでしょう。
 嘘じゃない本当に私はここをおかげ頂きたい、それをもうほんとに表に現してお取次ぎを何回とはなしに頂きにいかれるんだけれども、自分の思いのおかげは頂かれない、どころではない反対に修行が起っておるという、それはどういう意味のものだと思われますか。神様はただお供えをさせたい、お供えをさせたいと言う事だけが願いではない、立派なお広前を建立すると言う事だけが願いではないと言う事。結論するとそれは立派な御広前建立と言う事になるでしょうけれども。
 それは御互いの信心が立派なものにならせて頂いて、御造営を通して信心が愈々梅の花であろうか、菊の花であろうかと言う様な、磨き出されるような信心をお互いが頂かして頂く事を願われる、神様はそれを願おておられるんですよ。それを願うておられる、そしておかげを受ける、そして御造営の事に全身全力を注がして頂く、そこに見事なお広前が建立できる、そこに神様がようこそおかげ頂いてくれたと、立派なお広前もでけたと、お前達の心もいわゆる名石どおりにならしていただいたと。
 心に喜びが心に元気な心が、ね、私共がね焦点を、いわゆるポイントになる所を間違えてはならんのです。私はもう本当に一心だ一心だと言っているんですけれども、ね、その一心が中々二心にも三心にもなっておるのも私で、自分でそれを思うんですよ。神に一心、真一心と思うているんだけれども、それが一心で無い場合があるんですから、ね。久富繁雄さんが頂いておられますように、昨日の朝の御祈念に、自分と永瀬さんと二人で、昔酒屋に一斗樽ちゅのがあった。
 一斗樽に一生懸命お酒を入れておられる所であった、どう言う様な事だろうか、私は御心眼に頂いたのは4分の1と頂いた。ははあ4分の1と言う事はこれは4倍すると4斗になる、4斗樽はむかししとうだる、しとうだるというた。あはあこれは死闘が足りんのだと思うた。死闘と言う事は一生懸命と言う事なんだ、ね、成程たとえば久富さんにしろ永瀬さんにしろ、ま、椛目の第一人者ばかりなのである、ね、それこそ朝参り夜参りなさって修行なさっておられるんだけれど。
 成程椛目では立派なように見えておっても、はたして家でもそうであろうか、まだ3分の、4分の3だけは神様の目からご覧にならや、甘いものがあるのじゃなかろうか、してみると私共の場合はどう言う事になるか解りませんですね。昨日は日曜日でホ奉習員の方達の、いわゆる御祈念会がございます。御祈念会ちいうとおかしいですけど、それこそ一生懸命、御造営を中心にして、ただその事だけを祈られる所の御祈念なのです。最近はその御祈念に参加される方達も段々多くなって参りました。
 ですから朝の御祈念にお参りをされる、そして引き続いてからのことでございますから、皆さん、おなかもすいてくるだろう、家の事もやっぱり頭にかかってくるだろう、ね。日曜だからまあいいようなもんだけれども、まあ一家の婦人の方ですから、特に家庭の朝の御用もあるに違いないんですけれども、ですから私一通りお届け終わる所があの、次々とお参りがあるもんですから切りがつかん、そこに一塊になってから、そのそれを時間を待っておられる、ね。
 中にはそう言う事はもう無頓着でもう一生懸命でお取次ぎを願われてご神意を伺われよっている方達がいる、まあ一番先にこれでもう、さあいい加減で切り上げちから、はよ御祈念しようかと皆が待っておるわけです。一番最後に田村さん達がご夫婦で参って見えられて久留米の。それで久しゅうお取次ぎを願われたら今度はお伺いをされる、お伺いをされてから、その御神意を頂かせて頂く、私は御神意を伺わせて頂きよったら、神様から頂くことなんです、ね、「唄の文句で」頂くんですね。
 心耳に、草の葉という小唄があるです、「草の葉に止まるちょうちょは二心、そして菜の葉も捨てずして」という粋な歌の文句なんです。二心だとそして菜の葉も捨てずしてと、田村さんの事も一生懸命お取次しよるてんばってん、こちらで待っている人達のこつも一生懸命考えよる、待ちながかろうと、ね。いわゆる一心じゃないと神様が仰る、そこで私は腹を決めた、それからお取次ぎをさせてもらい、お伺いをさせて頂いて、そしてからまたしばらくご理解を説かして頂いてから。
 皆さんと一緒に御祈念をさしてもらう、こう言うような意味合いでならもういつも二心、三心であろうとこう、御祈念を聞かせていただきながら、あらこの終のバスが間に合うじゃろうか、もう10時ばってん、先生が辞めなさるじゃらわからん、ね、はらもうハイヤーどん乗っていかなんなら何百円また損すると思うてから心配なりよんなさるじゃろうならんですか、ね、そういうとはもう二心ですたい、ね、もうご理解が終るまではもうとにかく、久留米まででんよか。
 田主丸でんよか、もう歩いてでん帰る、そげな気持ちになったときが一心なんです。そういうふうに検討してまいりますと私共の信心はまだまだ、成程甘いなと神様ここんところを少し辛いものにして下さろう、愈々一心を出してくださろうと。しかも御造営を特に通して、御互いの信心を本当のものにして下さろうという御神意を分からして頂いて悟らしてもらう、思わしてもらうそしてこの問題を通して、よい信心を頂かしてもらわなければいけんと言う事、ね。
 それが御造営成就と言う事だけではない、自分の心の中にいわば、庭造りをさせて頂くのにです、ね、大きな石ばっかり持ってきたっちゃできん、大きな木だけ集めたちゃできん、泉水だけ掘ったちゃでけん、ね、このこともおかげせんにゃんからお参りしよる、このおかげ頂かんならんからお参りしよるというのは、泉水だけ掘りよるようなものじゃなかじゃろうか、と私は思うね、どんどん水の入ってくるこつばっかり願う、ね。
 とにかく大きな願いを立ててから大きなおかげを願う、大きなおかげを頂かせて下さいそのために一生懸命お参りしてきよるというのはです、大きな銘木をいうならばこのいまもあっちこっちに植えよるのじゃないでしょうか。大きな木を植えよるだけじゃいかんうっそうとなってしまうだけじゃいかん。その焦点そのポイントと言う所はです、ね、灯篭にあるという信心である、そして大きな石であり大きな植木であると言う事、ね。今朝のご理解から頂きますならばです、ね。
 どうしておかげが受けられん、そのおかげというのは、どうして有り難くなれんであろうかというところなんです。これはまだ私の信心が足りんからだという、そこから一段の信心が進められて行く所からね、例えば今日椛目で11時から12時までの間にここが感激のるつぼに化したような喜びがです、ははあこげなふうに一生懸命ならおかげ頂けるんだと、いう信心の、いわば喜びを頂ける基礎というものがでけてくる、ね、その基礎をつくらせて頂いて、そして様々に工夫させて頂かねばなりません。
 どうぞ一つお互いがね、神様おかげ下さっておると言う事は一様なんだ、吹いておる風は同じなんだけれど、その風鈴次第で音色が違うと言う事は皆さんがよく知っておいでられる事なのである。信心とは本心の玉を磨くもんだ、日々の改まりだ第一だと分かっておりながら、それをよそにおいて、そしていわば焦点を、目指しを他の所においておるようであったら信心にいつまでたっても楽しみが生まれない。
 この熱いのに汗ぶるぶる流して、歓喜しなければおられないような有難いというものは頂かれない、ね、焦点を間違えてはなりません。ね、ポイントが違ってはなりません。ね。例えば一例をあげるなら、今日麻生さんがあるお願い、お夢を頂いてお願いなさった、それはもういうなら、私はすぐそれには御理解付けられるような御理解なんですけれども、私共言葉に出しきらんぐらいなその事を頂いておる。で、神様に一生懸命その事をお願いさせて頂いたら「性のモラル」と頂いた。
 所がどっこい私が無学なもんだから、どういうてわからんけん私はその事について「性のモラル」と頂いたばい、ひとつあの高橋さんかだれか、あの学問した人によく聞いてみてごらんその事なんだ、そしたら早速参考書をひっぱてから。その見たらしい、したらなんて書いたちゃか、なんか道徳的とか、なんかとにかくその、書いてある全部をです、ね、この人がいまその事に焦点をおかなければならないような事がその字引の中に出てきておるんです、ね。
 ですからそれを頂いただけで、それをそこへです焦点を置いて修行させて頂く所からです、ね、神様の心に寄り添う事が出来るのである、神様の心になにか一生懸命でよりそうていかなければ、その湧いて来る様な有り難いというものは頂けるものではない。今年もそんならば、今日ここで若い人たちが一生懸命大祓いの奉唱をやったと、ご神前で御祈念をさして頂いたと言う様な、そういううちしぼる汗、ブルブルんならなければならないかというと、そうじゃないそれは一つの信心の基礎創りなのである、ね。
 例えていうならばです、ね、もういつもその風がずうっと吹いていなければ、チリンチリンチリンチリンというその余韻が続くようなですね、おかげが頂けんかというとそうじゃない、そうありがたくならんでんよか、そげん有難くなるとばかんなる、(笑い)ね。だから時々さぁっと吹いてきてもチリンとこう、その自分の心の中に目をつぶって金光様と金光様を念じりゃ心の底からそれこそ風鈴のよい音色じゃないけれども自分の心の中から金の鈴を打ち振るような。
 喜びの湧いて来る様なおかげを頂ける様になる事だけは、私が少し出てきよるから、これは確かにそうだなあとと言う事を思う、ね。けれども矢張り本当にその今日の徹さんじゃないけれども、その過程においてはですね、矢張りわざわざ炎天に出てから。それこそ暑いも寒いも感じんくらいに、大祓いの稽古でもさして頂こうというくらいなです、神様に打ち向かうその意欲が、私は欲しいと思うですね。おかげ頂きまして有難うございました。